その時2時46分には私は会社の18階で会議に参加してたんですが、かなり大きく揺れが長いこと続いたのは覚えてます。ただ東京付近での被害はそのくらいで、電車が止まったせいでその日は家に帰れたのは深夜過ぎですが、それまでは会社にいて電気もネットも使えたので帰るまでずっと海外の仕事相手とメールで仕事を続けてました。
ただ私は実家が宮城で被災地域の真っ只中なので、連絡がしばらく取れない間は心配で気が気ではなかったんですが実家から無事で特になんでもないと数日後に連絡があったので安心しました。
家に戻ったのは夏のことです。家は仙台南の平野部ですがなんと津波の到達点は家の数百メートル先まで来ていました。家は4km以上海岸から離れていて、海の匂いもまったく感じられないようなところなのにです。家と海岸の間には高く盛土された高速道路があって、それで護られたかたちです。沿岸の防波堤は軽く越えられ、防風林の松林もすべてなぎ倒されて、高速道路が最後の防波堤になるとは誰一人想像できなかったでしょう。それでも勢い余った水が海岸から4kmまで来ました。高速道路がなければさらに被害は拡大したかもしれません。
こちらはうちから数百メートル歩いたところのたんぼの光景で、ここまで海水が来たところです。すでに稲穂は青々としていました。左側は見慣れた田園風景ですが、右は荒れ地になっています。海水が入った田んぼは稲作ができないからです。ここから海岸まではずっとこうした荒れ地になっています。

少し歩くと地震の日から電車が来ていない線路に雑草が生い茂っていました。この区間はまったく再開のめどはありません。

それから親の運転で近くの沿岸部の状況を見に行きました。下の写真は行く途中に国道から見た海が見えていますが、本来ここから海は見えないはずなんです。海岸線は松林がずっとおおわれてそこまで家々が続いていたはずです。この国道も海水が超えているので、見える緑はすべて雑草です。

実際の沿岸部は想像を超えたものでした。写真をあげるのは遠慮しておきます。
家は破壊されるか撤去されたかで土台だけになっています。電柱は倒れているか残ったものは傾いています。沿岸の松林はほぼなぎ倒されています。何度も来たはずのうちの親もまったくここがどこかわからないというほど様変わりしています。そして土台だけになった家々のあちこちには玄関があったところに花が添えられています。それが延々とどこまでも続いています。
うちの親も震災後に様子を見に回った時は運転しながら涙が止まらなかったと言っていました。これは実際にそこに行ってみないとわからない感情です。正直言って見る前までは事故見物的なうしろめたさがありましたが、見た後はこれはみなが見に来るべきではないかと考え直しました。
そうしていろいろと考えて受け止めることが、この自然が豊かだが同時に恐ろしい国に住む我々の務めではないでしょうか。
失われたいくたの命のご冥福をお祈りします。