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2006年03月19日

モダンホラーとしての映画「サイレン」

見ようと思っていた映画「サイレン」がそろそろ公開終了なので見に行ってきました。
わたしも怖がりの怖いもの見たさというややこしいタイプの人なんで、基本的にスプラッタはだめですが「シックス・センス」とかミステリータッチのものは好きです。そこでこれには興味がありました。
映画はなかなか楽しめましたが、面白いのは合理的な解釈とそれでも残る謎というバランスだと思います。

映画の公式サイトです
http://www.siren-movie.com/index.html

ストーリーは30年前に謎の全島民消失があった島に主人公の少女(市川由衣)が弟の療養のために訪れるところから始まります。すでに島には新たに島民が住んでいますが、なにか不可思議な気配を感じます。また島には数百年前の謎の伝説もあります。そして彼女の周りにサイレンが鳴るたびに奇怪なことがおきていきます。
彼女が知った事実、そしてタイトルの「サイレン」の本当の意味とは...

以下もろに結末から書くのでネタばれOKの方だけ「続きを見る」を押してください。
(Commentを押しても表示されますのでご注意ください)
 
 
* * *
 
映画のラストでは主人公が村人は不死の信仰を持つゾンビだと感じます。そして危機を逃れようとして弟を連れて謎の根源と思われるサイレンがなっている島の頂上の鉄塔に登ります。
そこには塔のてっぺんにサイレンが据えつけられていました。主人公は必死に弟を背負って登ります。

そして主人公がついにサイレンを壊しますが、サイレンは鳴り止みません。
駆けつけた医師に「サイレンが聞こえるのは君だけだ」と言われて謎が氷解します。
実は弟は既に病死していて全ての怪奇現象は少女の幻覚の中の話だったのです。島を訪れたのは彼女自身の療養のためでした。
そして少女は鉄塔から身を投げます。

この映画を一人称で追っていくと複雑で迷ってしまいますが、この映画の事件を後日談として新聞記事のように(つまり合理的に)まとめて書き直すとこうなると思います。
「病気の弟が死んだことで精神を病んだ少女(つまり主人公の市川由衣)が島に療養に来たが、村人が謎の信仰を持つ不死人という幻覚を見た上に錯乱して鉄塔に上って落ちたが奇跡的に助かった。しかし(ここから映画にかかれてないけどラストで暗示されているのは)その後に彼女が落ちたショックからか医師をはじめ島民を皆殺しにして島民消失のようになった」
「この島では30年前にもやはり精神を病んだ青年(阿部寛)が同じように島民皆殺しをして島民消失事件がおきた」
となるでしょう。
そして主人公に聞こえた「サイレン」とは実は彼女が弟を失ったときに鳴っていた救急車のサイレンではないかと思います。それが強く心に残っていたので、島特有の風の音(これは島民が言っていた事実)がその記憶を呼び起こしたという点で説明がつきます。
そういう点では超常現象に思えた「サイレン」が本当は人のトラウマを表していて、人の心をかき乱す精神的な闇を巧みに描写した作品といってもいいと思います。最後に主人公が鉄塔に立ち向かった(つまりサイレンを消そうとした)のは自分のうちのトラウマと戦う行為だったといえます。しかし彼女は救いに来た医師を信じきれずにそれに負けてしまいました。
ここまでが「合理的」な説明です。

(飼い犬の名前はシックスセンスの子役の名前とか細かいところで伏線や仕掛けがたくさんあります)

しかし、謎は残ります。鉄塔から見た赤い海と謎の赤い少女はなんなのか?
その裏には主人公(市川)を真に動かしているのは、赤い海と赤い少女に象徴される数百年前の(一番初めの)全島民消失のさいに殺された人魚(もうひとつのサイレンであり、おそらくその時代の少女のこと)の呪いでは?そのために殺人が繰り返されるのでは?
というところも暗示されています。こちらのサイレンは伝承歌にある人魚伝説をあらわしているわけです。
これで主人公がはじめに読んだ辞書に載っていたサイレンの二つの意味がそのまま二つの解釈で映画に盛り込まれていることになります。

このように実際には映画「サイレン」には直接は化け物は出てきません(森本レオのゾンビシーンなんかは監督一流のジョークでしょう)。
日本のミステリーに東野圭吾のような新しい世代がいるように日本のホラーにも坂東眞砂子や小林真理子のようなモダンホラーという新しい潮流があります。わたしがこの映画を気に入ったのは「ほとんど合理的に説明できるけれども、それでも解明できないところが残る」というそうしたモダンホラー的なセンスです。

これで思い出すのは鈴木光司の小説作品「仄暗い(ほのぐらい)水の底から」です。
これも映画化されましたが、小説とは別物と考えてよいでしょう。鈴木光司はリングで有名になりましたがもっと普通の小説(海洋小説など)を志向している人でリングで有名になったのは心外かもしれません。「仄暗い水の底から」は直木賞候補作品になったほど質の高いものです。
この「仄暗い水の底から」は連作作品で「水・海」をテーマにしたモダンホラーですが、実は化け物は直接はいっさい出てきません。たしかに霊的に思える現象は語られるのですが、よく読むとみな「それは実は幻覚だったのでは?」という合理的な説明ができるのです。
たとえば映画化された冒頭の短編でも小説版では映画にあったような霊のようなものは直接は描写されていません。滴る水滴やエレベーターの不審な動きなどで間接的に描かれているだけです。実は育児と仕事でストレスを重ねた主人公の見た幻覚ではないか、という説明ができます。
他の短編でも主人公は他の人物から「恐ろしいものを見た」といわれますが、主人公がそれを直接見る描写は無いので実際にそれがいたのかどうかは明かされません。その人が見たといっているだけです。でも主人公はそれに対峙せねばなりません。坂東眞砂子さんの作品でもそうしたものがあったと思います。

もともと怪談というのは昔の人が自己防衛のために作った戒律のようなものです。電気のない時代の夜の闇に外に出るのは危険な行為だったので「外には怖い化け物がいるぞ」と子供に外に出ないように言い聞かせたものが怪談なわけです。
それが現代になるとその闇は心の中に入り、ストレスやトラウマのような「怪物」を相手にする現代なりのモダンホラーというものが必要になってきたのかもしれません。
しかし、、本当に夜の闇にはなにもいないのでしょうか?
大人になって闇には実はなにもいないと知りつつも、足がすくんでしまいます。人間にも少し残された脳の奥の本能が実はなにかを感じているからなのかもしれません。そこはあえて触れずに残しておくべき領域なのでしょう。
 
posted by ささき at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ○ 日記・雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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