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2010年01月29日

iPadに想う

iPadも発表会の時には自分が思い描いていたものとは異なったのでネガティブなものがあったけれども、少しおいて冷静に整理してみるとこれはこれでいいか、と思えてきました。
はじめはiPhoneとはOSが違うんではないかと思ってたけど、それは自分が違うものであってほしいと固執していたせいかもしれないと考えてきました。考えを切り替えてみると、ただのデカイiPhoneという認識は合っていて、そこに意味があるということです。

パソコンとはパーソナルコンピューターのことで、個人のコンピューターということです。なにを当たり前なと言われるかもしれませんが、コンピューターの黎明では当たり前ではありませんでした。
もともとコンピューターというのは計算センターにひとつ大きいのがどかんとあって、ユーザーはそれを共有して使うというのがそもそもの形でした。そんな時代に世界ではじめてパーソナルコンピューティングというものを唱えたのがアランケイで、その理想として「ダイナブック」というものを仮定しました。
その彼がiPhoneを見てジョブズに言ったそうです。「これの8x5インチ版があれば世界を取れるよ」と。
http://gigaom.com/2010/01/26/alan-kay-with-the-tablet-apple-will-rule-the-world/
iPadはiPhoneと同じことをiPhoneができない表示領域の広さ、高速でスムーズな動作、物理キーボードで行うことができます。それはiPhoneを使ってやりたくてもできなかったことができるということです。それをIPS液晶や高性能A4プロセッサが支えて$500という内容にしては考えられない価格で提供しています。
つまりはiPad自体が新しいものというよりは、iPhoneで作られた新しい世界を補完するもの、ということになるのではないかと思います。

実際にiPhoneではアプリをはじめできることはかなりハイレベルなのですが、小ささゆえの限界というのもまたあると思います。ツールにしてもゲームにしても電車の中だけで使うのはもったいないので「家で使うiPhone」という考え方もあるかもしれません。

iPhoneという言葉をスマートフォンの製品名というよりは文化のジャンルとしての一般名詞として捉えることもできるでしょう。
かつてのNewtonがそれを目指したようにです。くしくもNewtonの製品名はMessage Padという名前だったわけですが、そのMessageがInternetになったというわけです。
(Newtonについて書いた記事はこちら)
http://vaiopocket.seesaa.net/article/46256961.html

一方でiPadで新しいのはやはりiBooksとiBook storeです。もしiPhoneのApp storeのように手軽に出版物が流通できるなら、わたしはいつも撮ってる流鏑馬の写真などをまとめてePub形式の写真集にして、ぜひアメリカ市場で売ってみたいですね。そうした夢をみることもできます。
(ただし米国以外ではiBooksはリリース未定のようです)

東芝に安易に使われてしまったダイナブックという名に関してはアランケイはいい顔をしなかったともいわれています。
アランケイは自らの論文"Personal Dynamic Media (1977)"にダイナブック(=Personal Dynamic Media)の条件について以下のように書いています。
「持ち運び可能で表示機能は少なくとも新聞の紙面より質が高くなければならない。オーディオ出力も同水準が必要である。原因と結果の間(反応の速さ)には感じ取れるほどの間があってはいけない。」(参考)
のちにその価格は$500以下でなければならないとも言ってます。

いま拡張現実=AR(Augmented Reality)という言葉が流行ってきています。
このAugmentという言葉を人間の知覚の拡張という意味でコンピューターの世界に導入したのは1963年のダグラスエンゲルバートの論文です。同時にエンゲルバートはいまのウインドウとかマウスになるものを提案しました。
コンピューターの世界は進歩が早いと言っても、実のところやっといまになって60年代とか70年代の理想を実現し始めたというわけです。

わたしが今思うのはiPadにならアランケイはダイナブックという言葉を与えてもいいというだろうか、ということです。
posted by ささき at 23:45 | TrackBack(0) | __→ iPod, iPhone, iPad | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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